DEAR MY TWINS

双子の妊娠・出産・育児~子どもたちが成人するまでの回想録

000_はじめに

このブログは双子の娘を偶然にも授かった私の記録です。

妊娠中も産んでからも、ただ前に向かって突っ走って行くしかありませんでした。

そんな二人がもうすぐ成人になる。

成人年齢の引き下げに一抹の寂しさを感じてしまった。

そうか、もう成人になってしまう。

「娘たちの子ども時代」への餞別に、突っ走ってきた道を少しずつ振り返ります。

 

 

 

015_手術後:悶絶とはこういう時に使う言葉

2時間ほど後に私と娘2人は産科病棟に戻ってきました。子ども達はショーケースのような透明の箱に入って移動していました。

私は子ども達を取り出した後ぐらいから、意識がはっきりしておらず記憶が曖昧です。病棟の入り口で夫と母が話しかけてきたのは覚えていますが、返事しようにも上手く呂律が回らなかったように思います。突然、ものすごい勢いで歯がカチカチ鳴り始めて驚きました。寒いときになるアレですが、麻酔から覚醒し始めると起きる現象のようです。しかしまだその時は無感覚。寒いも暑いも全然感じませんでしたし、自分の意思で体を動かすことなど全くできない状態でした。

病室に帰り安静にしていると、突然今度は体が燃えるように熱くなってきました。ナースコールをすると電気毛布を外されました。電気毛布が敷いてあるとは全く気付かなかったので、暑さを感じる感覚が戻ってきたのでしょうが、まだ下腹部から足先は自分の意思で動かせません。看護師さんが色々とお世話をしに来てくれますが、何かの拍子に足先が変な方に向けられてしまい、足首の違和感が気持ち悪くて向きを変えたくてもビクとも動かせないのが辛かったです。すぐ別の方が気づいて直してくれて助かりましたが。喉もカラカラでしたが「水を飲むのはまだダメです」と飲ませてもらえず、のどの渇きでこんなに辛い思いをしたのも初めてでした。

その頃、家族は新生児室の子ども達を見ているようでした。後で一人ずつ、看護師さんが私の枕元に連れてきてくれて、その時初めてしっかりと顔を見ることができました。

麻酔がいよいよ切れ始めたのか、内臓を握りつぶされるような痛みが襲ってきました。切った傷の痛さなのか、子宮が収縮するときの痛さなのか、両方なのか、とにかく痛い苦しい我慢ができない。昨日の同室者は大げさでも何でもなく、私も彼女と同じく、地獄の底から聞こえてくるようなうめき声を上げ始めました。

とにかく痛くて我慢できない。息切れして普通に話すことも困難な中、必死に鎮痛剤をくれと頼みましたが・・・

「抗生剤の点滴が終わらないとダメなので、あと4時間待ってください。」

それホンマかいな?悶絶とはこういう時に使う言葉だと身をもって知りました。

 

014_予定帝王切開:押すんですね

手術当日、時間が来ると車椅子に乗せられ、看護師さんによって手術室へと運ばれて行きました。前の日、激しいうめき声を出しながら苦しんでいた同室者は徐々に落ち着き、私もいつの間にか眠って目覚めはスッキリとしていました。

私は裸眼では物体かどうかも判別できないほど、視力が非常に悪いです。手術日はコンタクト禁止で眼鏡をかけていましたが、エレベーターに乗ったら「眼鏡も預かりますね」と言われて裸眼になってしまいました。なので、ここからの記憶は音声とファンタジーな景色のみで、何が起きていたのか今もよく分からないままです。

何階に連れていかれたのかも不明なまま目的地に到着すると、「手術室の看護師○○です」と優しく話しかける看護師さんに出会います。私を緊張させないようにとしてくれていたのでしょうか。終始、好感度抜群でした。そして麻酔のためにベッドに横になると、いつも担当の先生にご対面。声で分かりますが、ぼやぼやのシルエットだけでは誰なのか見分けがつきません。視覚がぼやけていると感覚も鈍るのか、怖かった脊椎注射、ずい~んとした軽い痛みはありましたが何てことありませんでした。先生の注射も上手だったのでしょう。

しばらくすると、正座して足がしびれたのと同じあの辛い状態が胸の下まで発生しました。麻酔が効いているかどうかを確認するため、氷?冷たい何かを腕に当てられ「冷たっ!」と思ったら、ここも感じますか?とお腹のあたりを触られているっぽい。けど、冷たくない。けど、正座のビリビリが治まらないんですけど!部分麻酔ってこのビリビリがポイントなんですか?痛みは感じないけど、ずっとしびれが切れてて、痛い以上にめちゃくちゃ気持ち悪いんですね。

そして補助に入る別の医師から自己紹介を受け、執刀する産科の担当医、手術室の看護師、産科の看護師が周りで何かをしているのを声と空気の動きから感じ、いよいよ始まる手術への恐怖心、子どもの顔を早く見たいという高揚感も高まります。でも結局全部ビリビリの気持ち悪さに持っていかれるんですけどね。

帝王切開はお腹を切るのは分かるけど、そこから子どもをどうやって外に出すのか不思議でした。補助の先生が手術台に上がって、私の腹の上をまたいで立っているようなシルエットが見えると、「1人目行きます」って私のお腹を思いきり押したようでした。すぐに「2人目行きます」と再び私のお腹を勢いよく押しているように感じました。押すんですね。予想外でした。外界に出る気が無い子を引っ張り出したせいか、勢いよくオギャーなんて声では泣いてくれませんでした。そんなもんなんでしょうか?

眼鏡を付けてもらって一瞬だけ子ども達とご対面。自力でこの子達を産み落とした実感が全くないので、この状況に現実味が無く不思議な感じ。子ども達とはすぐに離されて私は手術の続き、縫合やら何やら、出産にかかる時間よりもそっちの方が長かったと思います。

この後ですよ。地獄のうめき声。私も同じでした。

 

 

013_妊娠10カ月(37週目):明日、私もこうなるの???

1週間伸びた手術を翌日に控え、ようやく入院。朝9時半ごろ病室に入ると、まずは丸一日かけたブドウ糖点滴が始まったと思います。手術での出血に備えて血液量を増やすという説明だったと記憶しています。そして一日絶食なので空腹感がすごかったのですが、点滴のおかげかフラフラしたりは無かったです。聞いたことないくらいにお腹はグーグー鳴りまくっていましたが。

私の入った病室は6人部屋で、その日は私を含め4人入っていました。ナースステーションの真ん前のこの部屋は、どうやら予定帝王切開など手術系妊婦が集められているようでした。隣は自然分娩中に腸が破れて緊急手術になって入院1カ月、向かい側は私と同じく翌日に帝王切開、斜め前はその日が手術でした。

その斜め前の妊婦さんが手術室へ出発し、数時間後に戻ってこられたのですが…

うめいている、ものすごい苦しそうに。その風貌から私が勝手にトルコ人と思っている彼女が、麻酔なしで手術したんかと思えるほどの悲痛な涙声で、付き添いの旦那さんにめっちゃ何かを訴えている。聞いたことのない外国語で何を言っているのか全く分からない!彼女に何が起きているのか想像もできず、私は恐れおののいていました。

明日、私もこうなるの???

いやいや、きっと日本人よりも感情表現が激しいだけよ、と思って心を落ち着けようとしていました。

そしてただひたすら一日中点滴が続き、夜は眠れない人が多くなるのか睡眠薬をすすめられたので飲みましたが、このことがあってか全然眠くならない。薬が効かないから追加で欲しいというと、「強めの睡眠薬だからダメです、たぶん真っすぐ立って歩けない状態にはなってますよ」と言われました。「目を閉じでゆっくり深呼吸してください」というアドバイスに従って眠りに落ちるのを静かに待ちました。

 

 

 

012_妊娠9カ月:限界やー

この頃からお腹の大きさに加えて重さと圧迫感がプラスされ、思うように体を動かせなくなってきます。

そして恥骨やらあちこちの痛みがますます強くなってきました。私は胎盤が左寄りで、胎児は中央に1人、右側に1人といった状態で、右腹が大きく膨らんだ歪な形をしていました。そのいびつさがますます顕著になると同時に、右腸骨付近に痛みが出始めました。(これがなかなか辛くて、今でも引きずってるんじゃないかと思う時があります。)

仰向けではもう寝れません。横向きになっても苦しい。立っても座っても苦しい。時々、尋常でないお腹の張りに見舞われて、生まれるんじゃないかとビクビクしながら過ごすことも多くなってきました。目が覚めてもすぐには動けなくて、布団の中でゴロゴロ半日寝ながら過ごし、昼過ぎようやく起きるのが習慣に。もう早く産みたい、外に出したい、限界やー、と訴える毎日を過ごしていました。

 

「手術は水曜と金曜どちらがいいですか?」こうやって誕生日が人工的に決まりました。

最後の検診は手術予定日の2日前、入院の前日でした。大きなお腹を抱えて過ごすのは本当にもう無理っと思っていた私はようやく明日入院できると、すがる気持ちで受診したのですが、先生からとんでもないサプライズを頂きます。

「最近の論文で36週は早いと言われているので、37週で産みましょう」

… なんやて?

 

 

011_命の正体はエネルギー

こんな現象、妊娠中に起こった方はいるでしょうか。

例えるなら、私のお腹の中で鉄雄が肥大化してたんです。cf.「AKIRA

お腹の内側から突き上げてくる、宇宙が誕生したみたいな巨大なエネルギーに耐えられなくなって意識を失う、これが2回ありました。つわりがひどかった頃と、お腹がパンパンで動くのが大変だった頃と。

急にお腹がどんどん熱を帯びてきて、内側からとてつもない圧力がかかるのですが、胎児が蹴るのとは全然ちがうのです。局所的な胎児の蹴りとは全く異なる感覚。腹の中いっぱいに鉄雄が肥大化してるとしか思えない。

最初に起こったときは怖くて必死に耐えようとしましたが、いつの間にか気を失い、2回目はまた来たーっと思って、むしろ早く気を失った方が楽だと巨大なエネルギーに抵抗せず身を任せて気を失いました。

何だったのか訳が分からなくて、自分を納得させるために、これが命の正体だと思うことにしました。つまり命の正体はエネルギー、はい。

 

 

 

010_妊娠7~8カ月:次の苦労はお腹の大きさ

つわりが終わって思考力が回復してからは、妊娠中毒症のリスクが大きいことなど色々と意識するようになっていましたので、とにかく早々に入院することのないよう気を付けていました。二絨毛膜二羊膜双胎ということもあってか担当医もそれほど警戒していないようで、検診は3週間ごと、特に問題なく出産直前まで同じペースで通い続けました。リスクがなくても多胎児なら管理入院必須、という方針の先生もいらっしゃったので、担当医によって妊婦生活がかなり変わるのかもしれません。私はできるだけ長く1人自由な時間を過ごしたかったので、管理入院なしは有難かったです。

7カ月に入り、赤ちゃんの肌着などを準備し始めました。性別を判明するのはもう無理と言われてしまったので、男女1組ずつ揃えました。1人でウロウロ外出することは1カ月前に比べると減っていった分、家でのゆったり静かな時間を愛おしんでいました。整理整頓されたリビングで佇みながら、もうこの状態を数年は拝めないなーと。

やや平和な日々が徐々に遠のいていき、次の苦労はお腹の大きさでした。

私の妊婦体形への変化は著しく、妊娠が分かって早々にスボンの前ファスナーが閉めづらくなり、仕事中、自分の席にいる間はファスナー全開。妊婦らしいお腹の膨らみが目立つ前に、まず電柱のような体形になっていくので驚きました。下着や洋服のサイズを上げてもウエスト周りの形状がなじまなくなったので、観念してマタニティ用を購入したのが妊娠3カ月目。

5,6カ月頃、同じくらいの大きさの妊娠さんに出会いましたが、その方は臨月で「いつ生まれても大丈夫って言われてます」だそうで、私は頭がクラクラしました。一体どこまでお腹が大きくなるのだろうと…

8カ月目に入ると日常生活の些細なところに支障をきたし始めます。記憶が鮮明に残っているのは、蛇口のレバーが遠ざかって不便になったこと、床に物を落としても簡単には拾えないのであきらめて放置するようになったこと。そして検診時の採尿。これが一番大変、軌道が見えない。目をつぶってやるのと同じ!勘を頼りに取らなくてはいけなくなりました。

マタニティ用のボトムは、妊娠前がMだからとそのままMを選んだのが間違いで、入らなくなってLに買い替え。Lでも小さくなってきましたが、ウエストゴムを付け替えて最後まで使いました。ゴムの付け替えができそうなのを選んでおいて良かったです。

でもまあ、この頃は大きさだけだったので笑えることもあるのですが、そこへ重さや圧力が加わり始めると、もう笑うこともできなくなるのでした。

 

 

009_両親学級:ハウツーものより普遍的に人を救う情報を提供するべき

計画性なく初めて妊婦になった私は、妊娠・出産・子育てに関して「使える知識」は何一つ持っていませんでした。その頃はインターネットが定着し始めたころで、何かあったらネットで調べるという時代ではありません。

生まれながらにしてデジタルネイティブな娘たちには想像もつかないでしょうが、スマホなんてもちろん無い。YouTubeも無い、そもそもネットで動画を気軽に楽しむという感覚がない。アマゾンはあくまでも本屋。ブログを書くのは著名人か情報系に強い人。イギリス人に「検索は”ゴォゴ”を使え」と言われて”google”を知りましたがググるという言葉はありません。

そんな時代、私にはベネッセの「双子&多胎の本」と、市の開催する両親学級が貴重な情報源でした。

ベネッセの本は近所の本屋に双子本はそれしかなかったのですが、役に立つ良質な本でした。しかし両親学級の方は、本を1,2冊読めばOKな内容だったかもしれません。むしろ行政は、ハウツーものより普遍的に人を救う情報を提供するべきだと強く思いました。

例えば、私の場合は産褥期の不安があり、赤ちゃんのお世話を手伝ってくれるサービスはないかと両親学級で相談しました。しかし紹介された人材派遣サービスに片っ端から問合わせても、新生児のお世話なんてできないとすべて断られました。何でそんなとこ紹介すんねんと思いますが、素人が電話帳でピックアップする程度のことしかやっていなかったのではと想像します。

サービス内容を詳しく問い合わせて選抜した業者の情報をストックしておくとか、業者が無いんだったら、新生児に対するサービスを新たに始めることを指導も含めて提案し、産後サービスができる人たちを増やすとか。そういうことに労力を注いでもらう方が、のちのち私達の利益になるような気がします。

素人が少々検索しても出てこないような情報を行政が提供してくれることにこそ、大変価値があると思うのですが。

あれから20年ほどたちましたが、行政の担当者が安っぽいハウツー動画や、使いづらいリンク先一覧を作ることに多大な時間を割いていなければ良いな~と思います。